両手がないこと。

くっそ疲れてて日付が変わる頃には寝てしまっていて今目が覚めた。本来夜行性であるはずのネコは僕の隣で寝ていて、本来昼行性であるはずのヒトが家に居ない。

僕をよく知るひとたちは、僕が誰かに甘えたり頼ったり迷惑かけたり出来るようになったことをすごく喜んでくれる。やから僕はそれが素晴らしいことで、なんの問題もないと思っていた。実際それは中々に素敵なことで十数年流していなかった涙が出るようになったりと言った目に見えた変化もあった。

ただ、僕は孤独に滅法弱くなった。

他人にもたれることの良さを知ると一人で立つのがしんどくなる。

前述した「僕をよく知るひとたち」は僕が“人間らしく”なることを喜んでくれたんだと思う。

「人間は一人で生きられない」的な言葉はよく聞くし、その通りだとも思う。

実際問題「一人で生きようと思うと自給自足せなあかんし」的なことはとりあえず置いといて、メンタル的な部分での「一人で生きること」って部分。「一人で生きること」が無理ということは「自分を一番に思ってくれる人と二人以上で生きること」が大切ってことを言いたいんやと思う。実際僕は人間らしくなって一人で立つことがしんどくなって、とても寂しがりやになった。そうすると人は他人を求めるようになる。一人で全部出来る人が恋人や結婚相手が出来ないってよく聞くのはそういう部分が大きく作用してるんやと思う。

ただ、世の中には「一人で居るしか無い人」ってのも少数ながらおるんです。僕がそれに当てはまる。実際僕は「僕をよく知るひとたち」に「そっち側の人間」であることを伝えてもいなかったので純粋な善意としてこちら側に導いてくれたのわかっている。ただな、やっぱり僕は一人で生きていくしかないので、もたれることを早々に諦めたほうが平穏な暮らしを送れるはず。

僕が誰かと生きていこうとすることは、産まれながらにして腕のないひとがバスケに挑戦し続けるようなことやと思う。後者の場合、その道はとても過酷やし「他人は普通にやってるのに」ってとこで何度も挫けそうにもなると思う。でも、本人がバスケを本気で好きなら意味があると思うし素晴らしいことだと思う。ただ、僕の場合はバスケも向いてない上に、好きでもないんよな。でもある日友達が楽しんでるのを見せられて「楽しいからお前もやれよ!出来るって!諦めんなって!」的な感じで誘われただけやねん。僕自身はバスケに愛着もないけど友達がそばにいてくれるなら的な感じでやっただけ。友達がそばに居てくれるときは確かに楽しかったけど、一人でもやるかって言われたら多分やらない。一人になったとき上手く出来ない自分と対峙したら無性に死にたくなるから。雑ながらもなんとか自分で巻いた包帯。他人はそれを解いて、お薬は塗ってくれるけどそのままにされんねん。解いたんやったら巻くまでしてくれって思ってしまう。メンヘラの女子高生みたいなこと言うてるけど、今まではこんなことも期待しなくて済んだから僕はやっぱり弱くなったんやと思う。ありえもしないことに希望を持って生き、その希望の入れ物が一向に埋まらないことに日々打ちひしがれて生きるぐらいなら、最初から諦めて自分なりの幸せを小さいながらも集めて生きていくほうがいくらも建設的に思える。

 

期待すると傷つく。そして相手を傷つけてしまう。

なら僕は絶望を自分で迎えに行くことで、誰も傷つけない方を選ぼうと思う。

文章だけ見ると病んでるように見えるひともいるかもしれへんけど、これはとても前向きな文章です。僕は自分に両手が無いってのは分かってたんやけど、最近になって「無くても問題ないかも」って思うようになってしまっていた。でもやっぱり両手がある人と生きるには両手いるわーって改めて実感したってだけの話。

僕は両手がなくても強く生きていく。