理屈っぽい男。

先日誰かがTwitterで言ってたんやけど「一日の終わり」と「一日の始まり」ってのはどこで決めるかって話。

「日付で変わったら」って人と「寝たら終わって起きたら始まる」って人がいた。

僕は後者です。

好きなバンドの曲でこんな詞があった。

“悲しくてさ 眠れずにさ ポストにガタン、と音がするねえ ねぇ新聞屋さん 僕の今日は 君にとって昨日のこと?”

 

話は変わり、そういえばバイトが始まりました。ほんで痛いおっさんは回避できた。なんか既に店長が僕の本職とかを話してくれてたみたいで

「なんか経営とかしてはるんですよね?すげえ」的なとこから入ってもらえるのでひたすら謙遜してます。

1回で大体8時間勤務なのですが、やることさえやれば1時間の公式の休憩を含め、大体3時間ぐらいゆっくり出来るので「比較的当たりのバイトかなぁ」と思っています。

 

そういえば最近Twitterをあまり更新しなくなったせいなのか僕が病んでいると思われているみたいですが、僕はとても元気です。なんか僕にとってTwitterってマイナス面の方が目立つようになってきたので見る機会が減ってきたんですよね。たぶんまた戻ると思うんですけどね(笑)とりあえず元気です。

 

そういやこのブログ。なんやかんやで毎記事70人ぐらいのひとが見てくれてるみたいで嬉しいです。フォロワーは700人以上いるけど10人に1人も見てくれるとは思わんかったので、少し驚きです。

 

人とぶつかってわかることって沢山あると思うんですけど、最近わかったのが僕の他人への考え方について。

僕好きな人ってとことん信じたくなるし、なんでも良い風に解釈しようとしちゃうんですよね。なんかね、その人は僕に対してただただ傷つけるための言葉を放っても僕は「僕のために僕のことをおもって言ってくれた言葉」だと解釈するんですよね。その部分に救われてきたことのほうが圧倒的に多いとは思うんですけど、女性に何度か「私はあなたが思ってるような良い人間じゃない」的なことを言われたことがある。要するに善を押し付けてるようなことになってるんかなと。世の中のひとって僕が思ってるほど他人に興味ないし、自分のためにした行動や、放った言葉が偶然ぶつかったやつのタイミングが良くてガツンと来ただけってパターンが僕の想像以上に多いのかもしれんと思いました。だから一つ一つの言葉にそこまで傷つく必要もないし、感謝して義理堅く生きる必要もないのかなぁ、と。大体のことって好きで素振りしてたバットにたまたまボールが飛んできてホームランになっただけなんよな。そもそも信じると思ってたことはただの思考停止で、僕は相手のことじゃなくて自分が信じると決めた相手。要するに自分の見る目。自分を信じたかっただけなのかなぁとも思っています。

こういう風に僕はすげえ理屈っぽいって言われるし、なんかこういう部分すげえ女の子に不評なんですけど仕方ないんですよね(笑)元々他の人より劣っていた人種で、やってみないとわからないことがあまりにも多い。みんなが「いやボールよく見てバット振れば当たるやん!」って言うことができへんねん。だから僕は失敗するたびに「なにがあかんかったのか」を考える。成功しても「なんで出来たのか」を考える。感情が動くたびに「なんで動いたのか」を考えるんですよね。それを好奇心という人も居ますが、普通のひとになるためにやってきただけのことなんです。沢山失敗をしてしまうから同じ失敗はしたくないんです。大事な人が自分のせいで泣いてしまったとき「なんで泣いているの?」と聞いてしまう。その人はその時は余計泣いてしまうことだってあるし、無粋なことをしているのはわかっているけど僕はあなたを二度と泣かせたくない とあなたの涙を見るたびに思っています。だから僕は原因や理由が知りたい。

ガキの頃からウサギとカメって言うよりもカメとクソ遅いカメぐらいの生き方をしてきたんです。でもこういう風に全てに理由を求めて理解しようとしてきたからこそ、人に物を教えることが得意になれたんじゃないかなと思うんです。僕はボールをよく見てバット振るだけじゃヒットが打てなかったからこそ自分なりの打撃理論があるんですよね。困ったことがあれば対策だって知ってる。僕は誰よりも失敗してきた自信があるから。コンプレックスを長所にする方法だって知ってる。なにやってもダメな人間は、何度も挑戦してきた人間なんやぞ。

そんな話を昨日の夜に電話で友人と話していました。

仕事までまだ時間があるので二度寝でもします。

 

両手がないこと。

くっそ疲れてて日付が変わる頃には寝てしまっていて今目が覚めた。本来夜行性であるはずのネコは僕の隣で寝ていて、本来昼行性であるはずのヒトが家に居ない。

僕をよく知るひとたちは、僕が誰かに甘えたり頼ったり迷惑かけたり出来るようになったことをすごく喜んでくれる。やから僕はそれが素晴らしいことで、なんの問題もないと思っていた。実際それは中々に素敵なことで十数年流していなかった涙が出るようになったりと言った目に見えた変化もあった。

ただ、僕は孤独に滅法弱くなった。

他人にもたれることの良さを知ると一人で立つのがしんどくなる。

前述した「僕をよく知るひとたち」は僕が“人間らしく”なることを喜んでくれたんだと思う。

「人間は一人で生きられない」的な言葉はよく聞くし、その通りだとも思う。

実際問題「一人で生きようと思うと自給自足せなあかんし」的なことはとりあえず置いといて、メンタル的な部分での「一人で生きること」って部分。「一人で生きること」が無理ということは「自分を一番に思ってくれる人と二人以上で生きること」が大切ってことを言いたいんやと思う。実際僕は人間らしくなって一人で立つことがしんどくなって、とても寂しがりやになった。そうすると人は他人を求めるようになる。一人で全部出来る人が恋人や結婚相手が出来ないってよく聞くのはそういう部分が大きく作用してるんやと思う。

ただ、世の中には「一人で居るしか無い人」ってのも少数ながらおるんです。僕がそれに当てはまる。実際僕は「僕をよく知るひとたち」に「そっち側の人間」であることを伝えてもいなかったので純粋な善意としてこちら側に導いてくれたのわかっている。ただな、やっぱり僕は一人で生きていくしかないので、もたれることを早々に諦めたほうが平穏な暮らしを送れるはず。

僕が誰かと生きていこうとすることは、産まれながらにして腕のないひとがバスケに挑戦し続けるようなことやと思う。後者の場合、その道はとても過酷やし「他人は普通にやってるのに」ってとこで何度も挫けそうにもなると思う。でも、本人がバスケを本気で好きなら意味があると思うし素晴らしいことだと思う。ただ、僕の場合はバスケも向いてない上に、好きでもないんよな。でもある日友達が楽しんでるのを見せられて「楽しいからお前もやれよ!出来るって!諦めんなって!」的な感じで誘われただけやねん。僕自身はバスケに愛着もないけど友達がそばにいてくれるなら的な感じでやっただけ。友達がそばに居てくれるときは確かに楽しかったけど、一人でもやるかって言われたら多分やらない。一人になったとき上手く出来ない自分と対峙したら無性に死にたくなるから。雑ながらもなんとか自分で巻いた包帯。他人はそれを解いて、お薬は塗ってくれるけどそのままにされんねん。解いたんやったら巻くまでしてくれって思ってしまう。メンヘラの女子高生みたいなこと言うてるけど、今まではこんなことも期待しなくて済んだから僕はやっぱり弱くなったんやと思う。ありえもしないことに希望を持って生き、その希望の入れ物が一向に埋まらないことに日々打ちひしがれて生きるぐらいなら、最初から諦めて自分なりの幸せを小さいながらも集めて生きていくほうがいくらも建設的に思える。

 

期待すると傷つく。そして相手を傷つけてしまう。

なら僕は絶望を自分で迎えに行くことで、誰も傷つけない方を選ぼうと思う。

文章だけ見ると病んでるように見えるひともいるかもしれへんけど、これはとても前向きな文章です。僕は自分に両手が無いってのは分かってたんやけど、最近になって「無くても問題ないかも」って思うようになってしまっていた。でもやっぱり両手がある人と生きるには両手いるわーって改めて実感したってだけの話。

僕は両手がなくても強く生きていく。

見直しはしない主義。

「歯が立たない」と言う言葉がある。

勝負にならない みたいな意味合いだと解釈している。元々、硬いものを食べようとしたけど歯が入って行かない的なことを言った言葉なんやろなー。と思った。でもヌルヌルしてても文字通り歯が立たんよね。でもその場合は「歯が立たない」ってよりは「暖簾に腕押し」って感じよね。「歯が立たない」は実力差で「暖簾に腕押し」はマッチアップの悪さって感じなんやろか。

でもまぁこんな風な元々はある事例を指してのみ使われた言葉が似たような状況で比喩表現として使われるようになっていって慣用句はことわざってのは誕生したんやなー。みたいなことを考えるとワクワクします。

 

僕らの時代に生まれた言葉で後々残っていくような慣用句はないやろか と考えるけどなかなか浮かんでこない。

動詞や名詞で新しい言葉ってのはあるし、言葉は変化していくから僕らの時代で生まれた言葉ってのはあるにはあるんやけど、ことわざとか慣用句はなかなかないね。

ら抜き言葉はよくないって聞くけど

「食べられる」と「食べれる」

日本語として正しいのは「食べられる」なんやけど「食べられる」には可能と受動の意味が含まれるよね。でもら抜き言葉の「食べれる」なら可能に絞られる。

言葉としてどっちが優秀か って考えると「伝える」と言う意味合いでは、ら抜き言葉じゃね?って見解があって見直されたりもしてるらしい。

あと最近知ったのは「新しい」って言葉は「あらたしい」って読むものやったらしい。確かに「新たに」とか読むもんね。

「あらたしい」で変換すると

「新たしい」になった。

「新」って字は「あたら・あら」って読むねんな。

言葉はおもしろいなぁ

裾が要る。

 

今日は突然休みになった。

降ってわいたような休みに特になにをすることも出来ずに昼間からスーパーに行って安売りになっていた秋鮭などを買った。

レシピを調べていた知ったのですが、鮭も色々種類あるんですね。

白鮭、銀鮭、赤鮭。

サーモンも種類があるみたいで。

あんまり何も考えずに食べてました。

今日は作りおきの物があるので食べてないですが、明日ホイル焼きにするつもりです。粕汁も食べたいけど作ったことないので手が出ない。

 

そのあとはTwitter見たら休みと書いていた鹿間と茶をしばきました。

写真教室のことを色々話しながらメモをしていると、やたら「字きれいになったな」と言われた。少し気持ち悪かったな。

お互いに時間もあったのでライカギャラリーに行きました。

とても良い展示だと聞いていたので少し不安でした。

自分の尊敬する人や、沢山のひとが「良い」と言っている展示に行くのって緊張しませんか?

その「良さ」がわからんかったら少し悲しいなぁと僕は少し思ってしまいます。

「良し悪し」なんか自分で決めたらいいってのは理屈ではわかっているのですが、僕のような普通人はどうしてもそういう小さいことが気になってしまいます。だいたい大丈夫やねんけど。今日も大丈夫でした。

植田正治 と言うひとの写真展。

入り口にある写真を見た瞬間に「良い!」ってなりました。

何枚か見てるうちに知ってるひとやと気付きました。

以前写真教室の生徒が僕に紹介してくれた写真家さんでした。

教える立場なんやからもっと沢山の写真を見ないとなぁ。勉強不足でした。

一緒に行った鹿間は名前見た瞬間に「植田正治やん!最高や!」言うてたので知ってた。

展示されている写真たちの一部を見ながら「空の写真やなぁ」と思った。空が写っていない地面とかの写真もあるんやけど、地面に当たる空を写しているように感じた。僕は体育会系の部活をしていたのですが、暑い日、僕は空を見ずに地面を見ていた気がする。照りつける太陽を浴び続ける地面を見ていた。そんなことを思い出しました。

イカギャラリーには有名な写真家の写真集も沢山あって見放題です。やっぱりエリオット・アーウィットはとても良いです。手元に置きたくなる。あと福山雅治の撮った写真の写真集があってネタで見てみたらめっちゃ良かったです。どちらも買おうと思った。

イカギャラリーを出て鹿間と分かれ、ブックオフで適当な文庫本を買って行きつけの喫茶店でボーッとしようかと思ってたらキタジが近くに居たので再度茶をしばきました。

僕は誰かに自分の思ってることを話すと整理できるタイプで、でもそれが話せる相手って案外限られてくる。

以前「あなたの話を聞いていると何もしていない私は苦しくなる」

と言われてしまったことがあった。ただ僕にはそれをどうすることも出来なくて、それから話す相手をなるべく選ぶようにしている。

アラサー男二人が平日の喫茶店で酒も飲まずに夢を語るというのはあまりにも寒い気がするが、それが「夢」ではなく必ず達成する「目標」ならええかなと思って僕は自分たちを客観視することをやめた。

 

明日で今週の平日も終わる。

バイトの初出勤日も決まった。

人生は強制スクロールなのでコインをなるべく取っていこうと思う。

 

はじめてみた

月が変わって、今月で三十路になる僕やけどアルバイトを始めてみました。

コンビニの夜勤って言う別に面白みのある仕事ではないんやけど。

4年ぐらい前までは生活が苦しくてやってたんやけど、今回は違います。違うくてよかった。

僕は時間が沢山あるとあんまり大事にできないタイプみたいで、動画観たりゲームしたり寝たりしてる。別にその時間が丸々無駄ってわけでもないんやけど、あまりにもその時間が多いから換金してみようって思って始めてみました。

と言っても初出勤は来週やからまだなんですけどね。

でも仕事柄収入が先まで読める訳でもないから働けば必ず得られる収入というのは安心感があって良い。それに人を普段は雇ったりする側に居るので雇ってもらって働くってのも気分転換になって良いかなと思っています。

とりあえず気をつけたいのは若い子への対応。

僕が学生なら30歳の見た目もシュッとしてないおっさんは怖いし気持ち悪い。

それを少しでもマシにしたい。とりあえず若者ぶらないことは重要かなと。色恋沙汰の話や、夢の話とかそういうのは基本せんとこうと思う。痛いおっさんにだけはなりたくない。基本的に聞き役に徹して、やることはやるけど硬くない感じの飄々としたおっさんを目指そうと思う。理想のおっさんは奥田民生とかです。

 

そういえば10月最終日の今日も鍋をしました。

同居人が鍋をつつきながら「そろそろ帰らないとなぁ」と言っていた。

何度も聞いたセリフやけど今日のは本当なんやろなぁと思った。

 

29歳の一年で僕は沢山のことを学んだ。

その中のひとつが「誰か」じゃダメだということ。

僕は「誰か」じゃ満たされないし、「誰か」を傷つけてしまうだけ。

あなたがいいです。ってちゃんと言えるようになった。

僕にそう言ってくれたひとがいたからそうなれたんやと思う。

まだ誕生日までは三週間弱あるので、この考えが変わるかもしれんけど。

 

明日も寒いようです。明日は裾の長いスボンを履こうと思います。

 

大学生の頃ぶりに。

10年ぶりぐらいに新たにブログを始めました。一応他にもブログはあるのですが学生の頃の記事などが残っていたりするので更新するわけでもなく消すわけでもなく、ただ残しています。多くの人に公開するようなものでも新たに始めることにしました。Twitterがあるのでええかーと思ったりしてたのですが、うだうだ長ったらしく書きたい時にはこちらを使おうかなと思って作った感じです。

家には4月の終わり頃から一緒に暮らしている同居人がいるのですが、約半年になってようやく夕飯を一緒に食べることが増えました。それまではお互い生活リズムが微妙に違いマイペースな性格であることや、2階建ての家に住んでいることもあってそれぞれに食事をとっていました。一緒に食事をとるようにきっかけが鍋です。寒くなったから鍋をすることが増えて一緒に食べることが増えたんですね。

まぁ実際「同じ鍋をつつく」なんて言葉もあるように、コミュニケーションのきっかけになるのかなぁ。寒いと他にもストーブや焚き火に当たったり、コタツに入ったりと囲んだりくっつくことも増えますしね。「冬は人恋しくなる」とも言いますからほんまに仲良くなるなら冬が一番ええんかもなぁ。僕みたいな暑苦しいのは実際冬のほうが重宝されますからね。

話を戻します。

最近同居人と夕飯を食べているときにちびまる子ちゃんのアニメを観ています。それがとてもとても良い。何が良いって言うのはそんなにあれなんですけど、とりあえず観てるのは初期のものばかりです。同居人が言うには初期の頃はマンガの話をアニメ化しているので面白い話が多いんじゃない?とのこと。僕はマンガは読んだことないのですが、マンガの最初の方はエッセイ漫画みたいな感じみたいで、実際アニメの方でもまる子の考えていることやナレーションなんかのひとつひとつがすごく粋と言うかウィットに富んでいる感じなんですよね。僕は西加奈子さんの円卓って小説を思い出しました。比較的新しい方のアニメを観ていた僕の持つちびまる子ちゃんの印象よりも、大人になってからのさくらももこが自分の子供の頃の話をしているような印象が強かったです。なんかYouTubeに消されずにいっぱいあるのでこれからも毎日何話ずつか観ます。飽きるまで。このブログも書きたくなったら書きます。飽きるまで。